韓国文化、歴史を紹介する 第1期 駐日本国大韓民国大使館 SNSリポーター募集トップ » 百済の紹介

百済とは、半島西南に位置し、古代韓国において高句麗、新羅と共に三国時代を形成し、西暦660年に新羅により滅ぼされた国家の名称です。百済はその名称を幾度か変え、また、いくつかの別名で記録に紹介されていますが、時代を超えて最も一般的な名称が百済です。百済の意味については記録により若干異なった説明がされています。そのうち、韓国古代史研究の基礎資料である三国志記には、百済の始祖であるオンゾ王が兄である沸流が従えていた百姓(民)を合流させ、より巨大な国家を作る際に、沸流のもとにあった百姓らが大いに喜んだ事から国名を百済へ改めたとの説明があります。
一方、中国の歴史書である隋書には百済を簡潔に紹介した「百済伝」があり、当初百戸余りが海を渡って南下し国を建てたため国名を百済としたと記されています。百済の名称については、三国志記と隋書のどちらが正しいかはまだ断定されるに至っていません。どちらも説話に基づくもので、三国志記に初めて登場する百済の名称は十済であり、当初から百済という名称が使用されていたのではないとの点からも、共に事実とは異なるとも考えられます。すこし長くなりますが、百済の建国と関連する三国志記の記録をご紹介します。
百済の始祖であるオンゾ王の父は鄒牟又は朱蒙といい、北扶余から難を逃れ卒本扶余へと至った。卒本扶余の王には男子がなく、三人の娘のみがいた。朱蒙を見た王は、彼が普通の人物ではない事を見抜き、二番目の娘を嫁がせた。間もなく卒本扶余の王が亡くなり、朱蒙が王位を継承して二人の男子をもうけた。兄を沸流、弟をオンゾといった。その後、朱蒙が北扶余にあった際にもうけた息子がやって来て太子となった事で、沸流とオンゾは太子に受け入れられない事を恐れ、鳥千・馬黎ら10人の臣下らと共に南へ向かったが、彼らに従う百姓も多かった。漢城に至って負兒嶽から住むべき土地を眺めたが、沸流は海辺に暮らしたいと言った。それに対して10人の臣下は「この河南の地は、来たには漢水が、東には高い山岳がそびえ、南には豊かな平原が広がり、西の大海が外敵を防ぐため、天と地の険峻さと利の多さは他では得難い地形です。この地に都を置くのが最適です。」と述べた。しかし、沸流は臣下の言を聞き入れず、従っていた百姓の一部を連れ彌鄒忽へ定住した。オンゾは河南慰礼城に都を置き、10人の臣下の支えを受けた事から国名を十済とした。前漢成帝の鴻嘉3年の出来事である。一方、沸流は彌鄒忽の湿った大地と塩分の多い水のために安住することが出来ず、慰礼城へ戻ってみると都は安定し、百姓らは平穏に暮らしていた。これを見た沸流は自らを恥じ、後悔の中で亡くなったため、その臣下と百姓らはすべて慰礼城へと戻った。百姓らが戻る際、非常に喜んでやって来たことから後に国号を百済とし、一族の起源が高句麗と同様に扶余にあるとして扶余を姓氏とした。
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